せいしんのタマシイ

俺の頭の中

なぜ「ブログ」というものは書かれ続けるのか

世の中にはいわゆる「傑作」とされる作品(映画、小説、アニメなど)がある。

 

またそれとは反対に、「駄作」とされる作品もある。

 

またまたそれらとは別に、全く話題に上がらない、「傑作」でも「駄作」でもない中途半端なところにある作品も大量にある。

 

そしてそれらの「評価」に関する言葉は、人にその作品を紹介するときに使われることがある。

 

「傑作映画30選」とか、「名作アニメベストテン」のような言葉は、聞いたことがあると思う。

 

しかし、その作品が「おもしろいか」、「いい話か」、「つまらないか」、「よくわからない話か」などというのはその作品に実際に触れた上での主観的な「感想」であるはずだ。

 

「感想」であるはずの「傑作」などの言葉が、なぜ「評判」となって作品をまだ知らない人に対しての宣伝に使われることがあるのか。

 

「傑作」でも「駄作」でもない作品があると書いたが、そのような作品がある以上、作品に対する「感想」は、コインの表裏やサイコロの出目のように、見たことで「傑作」か「駄作」かが確定するようなものではないということだ。

 

それらの「あいまい」な「感想」を、「おもしろい」、「つまらない」などの絶対的な言葉、あるいはレビューサイトの星の数などで簡単にわかりやすい表し方に当てはめている。

 

しかし、アンケートなどでの「そう思う」、「まあそう思う」などのように、自分の考えと100%合致する簡単な単語というのはなかなかない物である。「感想」は自分で言葉を使うしか、完全に表す方法はないのである。

 

「あいまい」な物を、「あいまい」であるままにするために、「ブログ」というのは書かれるのではないのだろうか。自分が何に感動して、何をつまらないと感じたか。それは自分にしか書けないのだから。